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素晴らしきこの世界に乾杯(サルーテ)! Yu-liによる気ままな雑記帳
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2025/04/19 (Sat) 13:17
Posted by Yu-li
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(注)普段以上に文章が雑、流れを気にせず書いているので読みづらいのはご容赦ください。

最近、某所で心理学を元にした(らしい)行動タイプ診断のようなものをやりました。
流石に心理学やらを取り入れたらしいだけのことはあり、ずばり言い当てられたな、と思います。
学習面つなげるための診断だったため、これからますます勉強をする必要のある方へ進学するタイミングでできたことは良かったかな。


その中でも気になったのが「良い子」の言葉。
その部分を抜粋すると
「期待に応えている限り、あなたは親に気に入られる『良い子』です。でも、『良い子』をずっと演じていると自身がなくなってきます」
確かに、その通りだと思います。
しかし、良い子でなければ生きていけない場合もあるんです。

そこで思い出したのが「アダルトチルドレン」
簡単に言うと機能不健全な家庭で育った子供のことですよね。
この機能不健全は外からわかるものでは内容です。
一見「良い家庭」に見える場合でも機能不健全な場合があるとか。
我が家は決して仲の悪い家庭ではないのですがね(むしろ家族仲は良いと思う)
問題があるとは思わないのですが。

しかし、セルフチェックをしてみると「可能性が高い」という結果しか出ません。
それでもアダルトチルドレンの多くの方が感じるパターンなどには該当しない……
そこで、自分なりに原因を考えてみました。
結論としては「親がアダルトチルドレン」
祖父が特殊な仕事をしていたことに加えアルコール依存症に近い状態だったこともあり、親の話を聞く限りでは機能不健全な家庭で育っていると思います。
よく、褒められた事がないって言って。
さて、アダルトチルドレンに育てられたらどうなるのでしょうか?
結果としてアダルトチルドレンに近い状態になるのだと思います。
褒められた事がないと感じる親が子供を褒めると思いますか?
否、褒めません。
というよりも、褒めるということそれ自体を知らないのですから褒めることができませんよね。
私は親の愛情を感じていないわけではありません。
普通の家庭(と言うとどのくらいを基準にするか曖昧になりますが)と同じくらいにはもらっていると思います。
ただ、「褒められた」と胸をはって言える出来事がありません。
むしろ、「出来て当たり前」の環境にいたと思います。
面白いくらいにそこが欠けている。
それが、私自身の結果に現れている……と。

アダルトチルドレンは病気ではない。
しかし、生活に深刻な悪影響を及ぼす事があるようです。
自分の場合を振り返るなら、「良い子」ですかね。
年相応以上に良い子だったかな。
幼い頃から甘えることに罪悪感を感じてあまり甘えることがありませんでした。
そもそも甘えを許してもらえなかったからなぁ。


なぜ、こんなことを書いたかというと少し自分を律したかったから。
上述の通り、アダルトチルドレンであるならば少々のケアが必要です。
私自身、生きにくさを感じてしまっているので。
周りに迷惑をかけないためにも自分でできることはしておきたいな、と。

あ、この診断ではなりたい職業に対するアプローチも書いてあるのですが、
法律職にはかなり向いているようだったので少し嬉しかったです。
しかし、弁護士より検察官により向いているというのは少々解せぬ。
刑事系はあまり好きではないのだが……

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セクマイを公言したのでもう一度考えたいと思います。
これはセクマイだけでなく、いろんな方面に言えることだと思うので。




外見と内面――
人が他人を評価する際に使用するのは大きく分けてこのふたつではないでしょうか。

自分自身に自己決定権、自分の生き方や生活ひいては趣味嗜好に口出しされない権利があるように、他人にも等しくその権利がありますよね。
言い換えると、自分で決定した趣味嗜好について好き自由に評価する権利を他人は持っているわけです。
評価することだって、自己決定に基づくものですから。
勿論、その評価に基づいて他人をけなすのはいいこととは思いませんが、すくなくとも評価に基づいて好き嫌いを決めることについては悪いことではありませんよね。

そこで、今回話題にあげたいのが冒頭に少し上げたように外見と内面。
人を判断するうえで重要な要素です。
人によってどちらに重きを置くかは違うと思います。
しかし、どちらも重要な要素であり、決しておろそかにできない要素です。
いくら中身重視といえ、外見があまりにも頓着のない人に好意を抱く人は少ないのではないでしょうか。
(少なくとも清潔的な見た目でいて欲しいと思う時点で外見について十分重視していると言えると思いますよ)
また、いくら面食いであっても人として最低限の礼儀のなってない人とお近づきになりたいと思う人は少ないのではないでしょうか。
(遠くから眺めていればいいかなあと思います、私は)
結局のところ、人は外見も内面も重視しているわけですよね。
好みの差はあれど、どちらも評価対象としているわけです。

しかし、外見と内面というようにきっぱり二つの要素に分けることってできるのでしょうか。
私は、外見、内面が相互に影響し合っていると思います。
内面が綺麗な人は外見においても、そう言った雰囲気が出てくる。
逆に内面に難のある人は所作ががさつだったりと外見において出てくる。
私はそう思います。
内面の要素が外に出てきたもの、それが雰囲気ではないかと。
プライドの高い人はそれが雰囲気にありありとでるし、引っ込み思案な人は振る舞いとは別に纏う空気にその要素がでると思います。
外見でいかに取り繕おうと纏う雰囲気まで変えるのは至難の技かと。
勿論、人によっては完璧に纏う空気が変わる人もいるので、内面を空気に出さない技術ていうのもあるのでしょうが。
それには結構神経を使うようですし、持って生まれ雰囲気から180度変えることはできないようです。

結局のところ、多くの人外見において内面を評価しているのかもしれません。
纏う雰囲気ににじみ出たその人の内面を評価して、好みに合うか、馬が合うかを評価しているのでは。
つまり、冒頭であげた外見と内面の区別ってあまり意味がないのですよね。
両方評価されているわけですから。

そう考えると、人と接する際、外見、内面ともに気を使うべきなのではと思います。
綺麗に着飾るだけじゃない、少し思いやりの気持ちを持ってみる。
色あせたり型崩れした服を着ない。
など。これって基本的な思いやりだと思います。

特に趣味の世界ではこの基本的なことをおろそかにする人が少なくない気がしますね。
勿論、趣味の内容についてはとやかく言いませんよ。
かくいう私も所謂サブカルチャーと呼ばれる趣味がありますし、大多数に認められないマイノリティーの立場に分類されることもあります。
それについて否定していたらキリがないし、それこそ自己決定権に反するのではと思います。
しかし、イベント的なものになるとその楽しさでこの基本的な思いやりを忘れる人、多いですよね。
ライブだったり、イベントだったりのあと、公共の場に戻った時の態度。
楽しいのはわかります。楽しいですもの。
ですが、服装やメイクだったり、他の人に対する配慮は忘れないで頂きたいですね。
TPO……とでも言いましょうか。
肯定的な立場の人間がいれば必ず否定的な人間がいることをお忘れなく。
偏見のない、嫌いなもののない人なんていないのですから。

内面、外見どちらにも気を使える、思いやりをもった人になりたいものです。
また、そういう方が増えてもらいたい。
そうなれば、マナー違反も少なくなるのではないでしょうか。


 最近のマナーについて、自己啓発に。



趣味のイベントなど参加のときは是非気をつけてください。
目に余る人が多い気がします。
私が気にしすぎる、厳しすぎる気もします。
(よく言われるんですけど)
でも、マナーは大切だと思うんですよね。
社会生活をする上でマナーは大切ですから
私自身も反省しないとなぁと思います。
今回は過去に別のブログで書いた記事を引用。
ちょっと考察したかったことなので、最後に現在の考えをまとめてみます。


教育は大切。
多くの人が思う事ですよね。
学力低下だとか虐め問題だとか体罰問題だとか。
昨今のニュースを賑わせる単語だと思います。

私の周りには何らかの形で教育に携わっている人がいます。
私も教育に微力ながら携わる人間なので彼らの経験や意見は参考になります。
今回はそんな話を少し展開。


教育者はどのような人間であるべきか。
皆さんの思い描く良い先生ってどんな人でしょうね。
優しい人? それとも厳しい人?
あるいは頭の良い人?
それぞれ教えを受けた先生は違うため、
それこそ十人十色なのではないでしょうか。
しかし、それぞれが思い描く良い先生の中に共通するものがあると思います。
それが人間としてしっかりしている、言い換えれば成熟しているという事ではないでしょうか。

今、塾通いが当たり前な世の中になっていますよね。
ダブルスクールと言うのかな。
(それとも、これは私が身をおく受験業界だけの用語でしょうか?)
学校と学習塾や予備校といった民間学習施設の利用。
もはや、塾の教育に占める割合は年々高くなっていますよね。
つまり、塾も教育を支える立場としてしっかりと自覚を持たなければならない訳ですが……
どうでしょうね。
多くの先生が自覚を持っていらっしゃると思います。

しかし、悪い噂と言うのも良く聞くものです。
生徒に対して「金の為の仕事だ」「(生徒の)親が怖いから勉強して欲しい」「この仕事に向いていない」……
言ってはいけない事ではないでしょうか?
そんな先生の下で学びたいですかね?
私なら嫌です。
干渉されるのが苦手なので、
あれやこれや聞いてくる塾の先生は好きでありませんでした。
苦手だったし……
それでもそんな先生方は誠意を持って接してくれていたし、どうしたら一番良いのか考えてくれていました。
苦手であれど、嫌いではなかった。
誠意が伝わっているから。
しかし、上のような言葉を言う先生はどうでしょう?
誠意なんて欠片も感じられません、私は。

教育は学力を上げるめだけの場所ではないはずです。
塾は勿論学校とは違うので、一番の目的は学力を上げる事でしょう。
しかし、誠意のない人間に教わった所で学力は伸びますか?
誠意を見せなければ相手もそれ相応の態度で望みますよね。
誠意を見せれば相手の子だってちゃんと返してくれる。
頑張ってくれる。
学力を上げる面でも誠意は必要ですよね。
啓蒙専制君主であってはならないと思います。

啓蒙……というよりは考える力をつけるのも教育の役目ですよね。
それならより、教えてやるという上から目線の態度ではなく、
生徒と対等な立場で誠実な対応がが求められるのではないでしょうか。
(勿論、先生と生徒と言う立場の違いはあります。
ここでの対等な立場とはひとりの人間として、と捉えて下さい)
上に上げた言葉を言う人の中には誠実さが足りない人だけでなく、教える立場の人間が偉いと考えている人もいます。
悲しいことにね。

ここで最初の問いに戻りたいと思います。
教育者はどのような人間であるべきか。
答えは誠実である人、だと思います。
啓蒙的な考えは止めて、人として誠実に。
教育者である前に人間でいてもらいたいです。


まさか、教育について考える日がくるとは思わなかった。
友人の話を聞いて憤りを感じたため、少し考察してみました。



「結果だけでなく、過程で何かしてあげられたといえるのか」
最近上司に言われた言葉です。
結果を出せないだけでなく、結果に至る過程で生徒をしっかり見て挙げられたのかと。
残念ながらそれができていなかったな、と反省しているところです。
考えさせる事を重視しすぎたあまり結果につながらない勉強をさせていたのかな。
もう一度教えることの意味を見つめ直したいと思う今日この頃です。

ファーストフードで愚痴大会?をしているマダムの会話。
残業で遅く帰ってくる夫への愚痴と社会の状況を考えて「そんなの贅沢な悩み」と活をいれるマダム。
ある意味社会の縮図かな、と思います。


マダムの愚痴は朝のお弁当作りに始まりダンナの帰宅を待っての夕飯の片付けが遅くなること。
おそらく専業主婦であろうマダムには残業で帰ってくるのはどちらかと言うと嫌らしい。
一方、働いているマダムからすればそれは甘い考えの様です。
残業がなくて稼げない、働けない人もいるのだから文句を言うべきでない。
あなたは恵まれているのだからそのくらいやるべき。
これがお仕事マダムの言い分。
主婦マダムが気になるのは体型やら自分の生活。
お仕事マダムはやはり仕事重視の生活なのかな。


どちらのマダムの言い分が正しいかはわかりません。
どちらも正しいと思うので。
立場が違えば意見が異なるのは当然。
働く必要がなく敢えて厳しい言い方をするなら社会に出ることを必要としない人ならば自分の生活に目が行くのは当然です。
社会と自分を比べる必要はなく、自分で稼ぐ必要もなければ自然と社会の動向より自分の事が気になりますよね。
苦しい生活をしている訳でなければ余計に。
一方自分で稼いでいる人は社会を意識するのは当然と言えば当然ですよね。
世間知らずでは生きていけませんから。
だからこそ自分しか見ていない人に対しては厳しい意見になる。

社会とどう関わるかによって感じ方も意見も変わってきますよね。
だからこそ色々な意見があって当然のこと。
ですから、どんな意見に間違いはないと思います。

ただ、自分の意見を押し付けるのはよくありませんね。
(どちらのマダムも自分の意見を押し付けあっているのですがよく会話ができるなぁと思います)
千差万別の意見を頭ごなしに否定するのでなく、受け入れた上で自分の中で意見を作りたいと思う今日この頃。

先日、社員さんとの面談がありました。
時給アップについて。
その時に言われた言葉が印象的だったので今回はそれについて。

社員さんから言われた事をまとめると
「自己分析力には優れるが他の講師と共有ができていない。思いを伝えるのが下手」
ごもっともです。
人に手の内心の内を明かす(言い方は悪いですが)のが苦手です。
ついつい、自分だけで判断、解決しようとしてしまいます。


人は社会を作って生きる生き物です。
嫌でも社会とかかわらなければ生きていけない。
しかも健全に生活しようと思ったら他人のコミュニケーションも必要になってきますよね。
そのために必要なことが「分析」「情報共有」「共感」じゃないかな、と思います。
私は専門家ではないのであくまで感覚で、ですが。

今の状況や相手の気持ちが「分析」できないとそもそも会話になりません。
それができないとKYと言われるのがオチですよね。
だからまず前提として「分析」が大切。
次に話すことで「情報共有」をする。
どんな内容だって相手と話せば情報を共有したことになりませんか?
「昨日の夕飯はカレーライスだったよ」という他愛のない会話の中でも、自分の夕飯がカレーライスだという情報を共有することにありますよね。
噂話なんて「情報共有」の典型例だと思います。
そして最後に「共感」。
共感ができないと会話が成り立たなくなるんですよね。
共感しない=人の話を聞かないってことにもなりかねなせんか?
相槌すらしないで自分の話ばかりする人とは話はできませんよね。

この三つがバランスよくできている人が話上手なのではないでしょうか。
さらに「情報発信」が出来ればなおよしです。


これに自分を当てはめると、「情報共有」がとても苦手です。
自分から情報を発信して共有するのが苦手です。
だからこそ人の意見を聞いたりすることは人の倍するのですが……
しかし、情報の共有ができなければ問題がたくさんありますよね。
コミュニケーションが取れなければ連携することができないし。
共有することで新しく発見することもたくさんあるし。
うーん、少し反省、です。

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職業:
学生さん
自己紹介:
法律家を目指す学生
癖が強く変わり者で、自他共に認めるフェミニスト
でも老若男女問わず、人間大好きです
故にパンセクシャル(全性愛)かと
序に、世話好き・甘やかしたがり

趣味は小説を書くことと放浪という名の旅行、
知識を付けるための勉強
酒ならビールと蒸留酒が好き

考えていないようにみえて実は考えていたり
好きなものについて語らせたら止まりません


……ですが、どうぞ宜しく
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