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素晴らしきこの世界に乾杯(サルーテ)! Yu-liによる気ままな雑記帳
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2024/05/02 (Thu) 07:24
Posted by Yu-li
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過去の記事から引用。
ちょっと考えてみました。



女性について書いた作者さんを良く見かける気がします。(S大学の学長さんかなにかですよね)
読んだことは無いのですが、一度目を通したいと思う本です。

そもそも、品格の善し悪しは個人の主観に基づくものと思われます。
なので一概にこれだと言うことは出来ないと思いますが、
(そもそも主観を定義する事は出来ませんし)
ある程度の人――所謂多数派が賛成する事はありますよね。
それが所謂常識やマナーになっている思います。

私の考える品格は常識より厳しい基準な気がします。
自称フェミニストな私は女性の9割は美しく、可愛く見えますね。
つまりは、顔の可愛さ、スタイルの美しさは判断基準になりません。
(だって女のコって時点で皆可愛いじゃない! ……顔が判断出来ないから、とか言わないで)
私が綺麗な人かそうでないか判断するときはそれこそ品格ですね。(まあ、判断することなど殆どありませんが)

いくら可愛いらしく化粧しようと、いくら綺麗な服を身に纏っていようと、品がない人は可愛く、美しく見えません。
それよりも歩き方、仕草、口調が綺麗な人が一番美しく見えますね。
それこそ化粧しなくとも、少し太っていようと(最低限の身嗜みは整えて頂きたいですが)品の良い人の方が
綺麗に化粧してスタイルの良い人より綺麗にみえます。

性格は外見にでると思います。
いくら可愛い見た目をしていても、性格ががさつならそれが表に現れるでしょう。
逆に、可愛く無くても綺麗な心の持ち主は綺麗に、可愛く見える筈です。
(少なくとも、私はそうだと思っています。)

つまりは、外見も大事ですが、
(人の印象は外見で決まると言っても過言ではありませんから)
内面を綺麗にするのをお座なりにするのはどうかと。
磨くなら内面も磨いて欲しいものです。



なんでこんな話をしたかと言うと、
電車やバスなど公共機関での化粧は止めましょう。
少し見苦しいです。
と思っただけの話


自分は品のある人間でいたいものです。



外見に出るのは正確だけではないと思います。
育ちや考え方だって反映されるでしょう。
それが他人から見てわかるものかどうかはわかりません。
それでも、わかる人にはわかると思います。

外見を磨く人は多いですが、内面まで磨けている人は少ないと思います。
勿論、外見を磨くことは大切です。
第一印象は外見で決まるようですから。
でも、外見にかまけて内面をおろそかにしてもらいたくはありませんね。

自己啓発を兼ねてもう一度記事をまとめることにしました。
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現在の政治家に品格はありますか?
品格がないとしたらそれはどうしてでしょう。


政治に腐敗はつきもの。
歴史を見れば一目瞭然ですよね。
衆愚政治と言う言葉があるくらいですから。
政治体制がどうであれ、腐るものは腐るんです。
民主政治、独裁政治、関係ありません。
腐敗するものはするのです。
そのため、時には政治を一新するような、新しい風を吹き込むような、
旧体制を変えるような力も必要ですよね。

とはいえ、現代の民主政において新しい風を入れるのはなかなか至難の技だと思います。
そもそも国民の意識が低いことからして変わる要素が限りなく少なくなりますね。
選挙での意思表示が数少ない変わる要素なんですから。
そのなかで政治を変えるには少々トリッキーな事をする必要があると思います。

ここ数日、参議院議員の行動が問題視されていますよね。
天皇陛下への直訴に訪朝とタブー視されていることをやってのけた議員の方。
それが褒められた行動かどうかはさておき、ある意味今の政治のあり方を問うものになったのではないでしょうか。
変わらない政治を腐る前に(もしかしたらもう腐敗しているのかもしれませんが)変えようとしたのではないでしょうか。
この行動自体はプラスの評価があってもいいのではないのでしょうか。

ただし、どの世界にもルールとマナーはあります。
腐敗したやらなんやら言ってもルールはあります。
悪習、悪法は変えなければなりませんが、変えられるまでは規範として存在しています。
従いたくないのなら、それを変える方が先です。
規範として存在する以上、それに従った世界が出来上がるのですから。
(特に慣習の場合は、多くの人が従うから慣習となりますね)
政治の世界はその規範を作るところです。
その権限を最大限に使って悪法を変える方が先だと思います。
勿論、少数派の意見を通すのは大変なことは重々承知しています。
しかし、少数派だからという事は規範を破っていい理由にはなりませんよね。
(少数派だからといって犯罪は許されませんし、同性結婚ができるわけではありません)
規範から外に出ることはあまりいい事とは思えません。
だからこそ、それだけ行動力のある方々だからこそ、規範の方を変えてもらいたかった。


政治家の品格は国民の意見を聞き行動する力に加え、規範を守ることも必要なのではないでしょうか。
政治家としての自覚を持ち法に従う姿勢を見せながらも、国民の意見を聞き既得利権にとらわれずに行動する勇気を持つ人が良い政治家ではないですかね。
そんな品格を持った政治家の方は現在、いらっしゃるでしょうか。
さて、またまた動きが出てまいりました『黒子のバスケ』関連の事件。
前回の事件は事後に知ったという情報の遅い私ですが、今回はたまたま情報番組で報道していたので考察してみようと思います。


手口などはグリコ・森永事件と似ているらしいですね。
私はこの世にいないので知らなかったのですが……
ネットでは早く逮捕しろなどの書き込みを見かけますが、実際どうなんでしょうか。
被害届も出ているようですね。しかも捜査もしているようです。

なぜ、犯人が捕まらないのでしょうか。(以下、ちょっと考察してみます)
犯罪の捜査の発端は事件です。
例えば殺人なら、殺人があったという事実から出発します。
刑事ドラマでの冒頭部分ですね。
今回の発端は脅迫です。
脅迫は被害者が言い出さないと事件になりませんよね。
なんとわかりにくい……
しかも1対1で正面きった脅迫ではなく、書面で匿名性を持たせている。
これ故、書面の内容、消印、どこで販売された封筒、紙かを特定する作業からはじめる必要があります。
捜査に時間がかかるのも仕方がありません。
これだけ手の込んだ事をする犯人であれば、まさか指紋など残していないでしょうし。
警察が無能だからではないと思うな……

そもそも彼らの興味を引く事件ではないだろうけれどね。
ここからは本当に予測の範疇ですが、(間違えは多々あるでしょう)
警察を目指す方って正義感が強いかつ、頭の固い方が多いのではないでしょうか。
ついでに、プライドも高い。
上述の事が違ったとしても、一定の傾向があると思うのですよね。
正義感のない人が警察になってもかえって苦労するだけだと思いますし。
検察官だって同じかと。
特に司法試験を通った頭の良い方かつ、正義感の強い方がなるんじゃないかな。
なので、そう言う部分を総括すると上のようになるのではないかと思います。
まあ、そうなると仮定して話を進めますが、その場合、やっぱり捜査のし甲斐があるのは殺人などの凶悪事件ではないかと思います。
推理小説や刑事ドラマでも扱われる事件の殆どは殺人か、お金目当ての誘拐、国家転覆の陰謀なんかが取り上げられますよね。
話題性もあるし。
警察(検察)の方だってそういう事件の方が燃えるのではないでしょうか。
正義感が強ければなおさら。
小さな悪より、諸悪の根源を断つことに目が向くのではないかな。
仮に自分なら……と考えても、刑事ドラマみたいな事件がいいと思います。
(私だけかもしれないけど!)
そうなれば脅迫やらストーカーやらに目が行かなくなりますよね……
(もちろん、そもそも警察官の人数が少ないのも理由にあると思います。
公務員の減少やら、なんやら言われる世の中ではなかなか難しい問題かもしれませんね)
だからこそ、興味を引く事件じゃないのでないかな、と。
興味のあるなしで事件を判断されるのは困りますし、この考察はあくまで私見ですが。
(とはいっても、やはり重大事件の方に重点は行くでしょうね。
人員は限られているのですから)

しかし、今回の事件は大手企業から被害届が出ている上、報道番組などでも取り上げられています。
また、グリコ・森永事件の再来と言われれば、警察も動かざるを得ないのではないでしょうか。
グリコ・森永事件は未解決で時効を迎えてしまっていますからね。
これこそ、犯人の思う壺なのかもしれませんが。
ですが、この事件を解決できない警察ではないと思います。


愉快犯の犯行なのか、はたまた怨恨なのか……
解決することを願います。
警察のメンツのためにも。
セクマイを公言したのでもう一度考えたいと思います。
これはセクマイだけでなく、いろんな方面に言えることだと思うので。




外見と内面――
人が他人を評価する際に使用するのは大きく分けてこのふたつではないでしょうか。

自分自身に自己決定権、自分の生き方や生活ひいては趣味嗜好に口出しされない権利があるように、他人にも等しくその権利がありますよね。
言い換えると、自分で決定した趣味嗜好について好き自由に評価する権利を他人は持っているわけです。
評価することだって、自己決定に基づくものですから。
勿論、その評価に基づいて他人をけなすのはいいこととは思いませんが、すくなくとも評価に基づいて好き嫌いを決めることについては悪いことではありませんよね。

そこで、今回話題にあげたいのが冒頭に少し上げたように外見と内面。
人を判断するうえで重要な要素です。
人によってどちらに重きを置くかは違うと思います。
しかし、どちらも重要な要素であり、決しておろそかにできない要素です。
いくら中身重視といえ、外見があまりにも頓着のない人に好意を抱く人は少ないのではないでしょうか。
(少なくとも清潔的な見た目でいて欲しいと思う時点で外見について十分重視していると言えると思いますよ)
また、いくら面食いであっても人として最低限の礼儀のなってない人とお近づきになりたいと思う人は少ないのではないでしょうか。
(遠くから眺めていればいいかなあと思います、私は)
結局のところ、人は外見も内面も重視しているわけですよね。
好みの差はあれど、どちらも評価対象としているわけです。

しかし、外見と内面というようにきっぱり二つの要素に分けることってできるのでしょうか。
私は、外見、内面が相互に影響し合っていると思います。
内面が綺麗な人は外見においても、そう言った雰囲気が出てくる。
逆に内面に難のある人は所作ががさつだったりと外見において出てくる。
私はそう思います。
内面の要素が外に出てきたもの、それが雰囲気ではないかと。
プライドの高い人はそれが雰囲気にありありとでるし、引っ込み思案な人は振る舞いとは別に纏う空気にその要素がでると思います。
外見でいかに取り繕おうと纏う雰囲気まで変えるのは至難の技かと。
勿論、人によっては完璧に纏う空気が変わる人もいるので、内面を空気に出さない技術ていうのもあるのでしょうが。
それには結構神経を使うようですし、持って生まれ雰囲気から180度変えることはできないようです。

結局のところ、多くの人外見において内面を評価しているのかもしれません。
纏う雰囲気ににじみ出たその人の内面を評価して、好みに合うか、馬が合うかを評価しているのでは。
つまり、冒頭であげた外見と内面の区別ってあまり意味がないのですよね。
両方評価されているわけですから。

そう考えると、人と接する際、外見、内面ともに気を使うべきなのではと思います。
綺麗に着飾るだけじゃない、少し思いやりの気持ちを持ってみる。
色あせたり型崩れした服を着ない。
など。これって基本的な思いやりだと思います。

特に趣味の世界ではこの基本的なことをおろそかにする人が少なくない気がしますね。
勿論、趣味の内容についてはとやかく言いませんよ。
かくいう私も所謂サブカルチャーと呼ばれる趣味がありますし、大多数に認められないマイノリティーの立場に分類されることもあります。
それについて否定していたらキリがないし、それこそ自己決定権に反するのではと思います。
しかし、イベント的なものになるとその楽しさでこの基本的な思いやりを忘れる人、多いですよね。
ライブだったり、イベントだったりのあと、公共の場に戻った時の態度。
楽しいのはわかります。楽しいですもの。
ですが、服装やメイクだったり、他の人に対する配慮は忘れないで頂きたいですね。
TPO……とでも言いましょうか。
肯定的な立場の人間がいれば必ず否定的な人間がいることをお忘れなく。
偏見のない、嫌いなもののない人なんていないのですから。

内面、外見どちらにも気を使える、思いやりをもった人になりたいものです。
また、そういう方が増えてもらいたい。
そうなれば、マナー違反も少なくなるのではないでしょうか。


 最近のマナーについて、自己啓発に。



趣味のイベントなど参加のときは是非気をつけてください。
目に余る人が多い気がします。
私が気にしすぎる、厳しすぎる気もします。
(よく言われるんですけど)
でも、マナーは大切だと思うんですよね。
社会生活をする上でマナーは大切ですから
私自身も反省しないとなぁと思います。
今回は過去に別のブログで書いた記事を引用。
ちょっと考察したかったことなので、最後に現在の考えをまとめてみます。


教育は大切。
多くの人が思う事ですよね。
学力低下だとか虐め問題だとか体罰問題だとか。
昨今のニュースを賑わせる単語だと思います。

私の周りには何らかの形で教育に携わっている人がいます。
私も教育に微力ながら携わる人間なので彼らの経験や意見は参考になります。
今回はそんな話を少し展開。


教育者はどのような人間であるべきか。
皆さんの思い描く良い先生ってどんな人でしょうね。
優しい人? それとも厳しい人?
あるいは頭の良い人?
それぞれ教えを受けた先生は違うため、
それこそ十人十色なのではないでしょうか。
しかし、それぞれが思い描く良い先生の中に共通するものがあると思います。
それが人間としてしっかりしている、言い換えれば成熟しているという事ではないでしょうか。

今、塾通いが当たり前な世の中になっていますよね。
ダブルスクールと言うのかな。
(それとも、これは私が身をおく受験業界だけの用語でしょうか?)
学校と学習塾や予備校といった民間学習施設の利用。
もはや、塾の教育に占める割合は年々高くなっていますよね。
つまり、塾も教育を支える立場としてしっかりと自覚を持たなければならない訳ですが……
どうでしょうね。
多くの先生が自覚を持っていらっしゃると思います。

しかし、悪い噂と言うのも良く聞くものです。
生徒に対して「金の為の仕事だ」「(生徒の)親が怖いから勉強して欲しい」「この仕事に向いていない」……
言ってはいけない事ではないでしょうか?
そんな先生の下で学びたいですかね?
私なら嫌です。
干渉されるのが苦手なので、
あれやこれや聞いてくる塾の先生は好きでありませんでした。
苦手だったし……
それでもそんな先生方は誠意を持って接してくれていたし、どうしたら一番良いのか考えてくれていました。
苦手であれど、嫌いではなかった。
誠意が伝わっているから。
しかし、上のような言葉を言う先生はどうでしょう?
誠意なんて欠片も感じられません、私は。

教育は学力を上げるめだけの場所ではないはずです。
塾は勿論学校とは違うので、一番の目的は学力を上げる事でしょう。
しかし、誠意のない人間に教わった所で学力は伸びますか?
誠意を見せなければ相手もそれ相応の態度で望みますよね。
誠意を見せれば相手の子だってちゃんと返してくれる。
頑張ってくれる。
学力を上げる面でも誠意は必要ですよね。
啓蒙専制君主であってはならないと思います。

啓蒙……というよりは考える力をつけるのも教育の役目ですよね。
それならより、教えてやるという上から目線の態度ではなく、
生徒と対等な立場で誠実な対応がが求められるのではないでしょうか。
(勿論、先生と生徒と言う立場の違いはあります。
ここでの対等な立場とはひとりの人間として、と捉えて下さい)
上に上げた言葉を言う人の中には誠実さが足りない人だけでなく、教える立場の人間が偉いと考えている人もいます。
悲しいことにね。

ここで最初の問いに戻りたいと思います。
教育者はどのような人間であるべきか。
答えは誠実である人、だと思います。
啓蒙的な考えは止めて、人として誠実に。
教育者である前に人間でいてもらいたいです。


まさか、教育について考える日がくるとは思わなかった。
友人の話を聞いて憤りを感じたため、少し考察してみました。



「結果だけでなく、過程で何かしてあげられたといえるのか」
最近上司に言われた言葉です。
結果を出せないだけでなく、結果に至る過程で生徒をしっかり見て挙げられたのかと。
残念ながらそれができていなかったな、と反省しているところです。
考えさせる事を重視しすぎたあまり結果につながらない勉強をさせていたのかな。
もう一度教えることの意味を見つめ直したいと思う今日この頃です。

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非公開
職業:
学生さん
自己紹介:
法律家を目指す学生
癖が強く変わり者で、自他共に認めるフェミニスト
でも老若男女問わず、人間大好きです
故にパンセクシャル(全性愛)かと
序に、世話好き・甘やかしたがり

趣味は小説を書くことと放浪という名の旅行、
知識を付けるための勉強
酒ならビールと蒸留酒が好き

考えていないようにみえて実は考えていたり
好きなものについて語らせたら止まりません


……ですが、どうぞ宜しく
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